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聖書訳漢字字典 <賀正>

 昨年の夏以来体調を崩して英語のことを考える気も書く気力も湧かないので簡単な漢字解釈でもしてお茶を濁すことにしたいと思う。

 時節柄、賀正の意味を考えてみる。この二文字を見て疑問に思うのは、賀のなかに何ゆえに<貝>という、陰気な生物が登場するのか。
 次に、正しいのなかに何ゆえに<止>まるが存在するのかだと思う。この文字はまるで正しいことと進歩することは相反するのだと言っているように見える。

 このことについて漢和辞典がどのような解釈をしているのか知らないし、調べる気にもなれない。その理由は別なところでも書いたが解らないことは形声とか借字とかと勝手にこじつけているだけだからだ。もし、科学や医学でそんなことを書いたら呆れられて相手にされないはずだが、わが国の漢和辞典は文芸書の類だと思うようになってから腹も立たなくなってきた。

 貝がなぜここにあるのか。それを解明すれば賀の意味はすぐに理解できる。

 まず、貝とは何であるか。一般的にそれは容姿容貌に優れているとは言いがたい。食べ物として口にする場合でも貝よりは蟹や海老の方が一段も二段も上であろう。ちなみに蟹は解らない虫なのかそれとも解(ほど)けない虫という意味なのだろうか。

 聖書に基づいて命がけで漢字を創作していった聖書の民は貝をどのように見たのか。自然に存在する全てのものが神の被造物であり、それゆえ全てが愛おしい平等なものと見るならば、その外見やまして味などではなく形而上的に見た形や動作であったはずだ。

 数千年前の漢字の創作者になったつもりで貝を理解するとそれは、二つの円が一つになり、しかも開いた状態で立てると数字の<八>になるという実に目出度い生物に見える。

 円は太陽であり、日で表される。それを縦に二つ重ね合わせると目となる(だから、目は横に並んでいるものを縦にしたのではなく、二つの太陽の意味である)。それに、八を付けてさらに貝を次々に加え、積み重ねたのが賀である。これが目出度くないわけはない。加えるについては確信がないので別なときに書くことにしたいが、賀の意味については解ってもらえると思う。

 次に正しいは、止まるの上の横線が天を表していることを知れば理解できる。つまり、天の下に止まることが正しい道であると語っているのだ。では、止まるはなにかというと、これが実にユーモラスで一、二画目は上から下に下った途中を表す点、三、四画目は左から右へ行く途中を示す点を組み合わせているのである。

 つまり、止まるとは最後の地点、例えば終着駅に着いた状態ではなく途中駅に停車する意味なのだ。

 我々は、ものを数えるときに五つ毎に区切り、正を一つずつ書き足してゆくが、五とはもちろんGod(賀)である。

 従って賀正とは、神の栄光が積み重なり、末広がりであることを寿ぎ、併せて神の定めた道に止まることを誓う言葉、ということになる。

 

 

 
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アルファベットの原理及びその他<C>上

 以前、「花は桜木 人はイエス」を書いたときに、桜をなぜ日本語でサクラと呼ぶのか疑問に思ったままに終わった。が、先日、房総半島を電車で通った際に答えを見つけたような気がした。

 半島には蘇我、大戸、銚子など気になる地名が多く、車窓から興味津々で眺めていた。目が釘付けになったのが「六六稲荷」の看板である。途中、佐倉に差し掛かった。「サクラか」と、その名を解明しようと何年も考えているのに歯が立たず、諦めていた言葉である。佐倉惣五郎の石碑を目にしてそこが伝説の地だったとのかと感慨にふけりながら、木村鷹太郎が「旧約聖書日本史」のなかで「イエス キリストをなぞった架空の話である」と断定的に書いていることを思い出した。

 当時は納得できずに飛ば読みしたのだが、やはり木村は間違っていなかった。

 サクラとはThe chry (サ クライ) ではないのか。The をサと読むには抵抗があるもののChrysanthemum のThe はスィと発音するのだから、それほどこぢつけとは言えないだろう。サクラとはイエスのことである。

 義士の名は、佐倉藩の惣五郎だからではなく「イエスは完全なる神の子」という意味を込めて誰かが名づけたのである。木村鷹太郎は義士の行跡からそのように解釈したのだが、姓名からもそれが裏付けられたと言って良い。

 敬愛する歴史家の明石散人氏は五十音を<五十音字図>と表現している。図ではなく文字の方に重点があるとの主張だろうが、私は<五十音図>を支持したい。その理由は、片仮名、平仮名を素直にみると十字架があちらこちらに散らばり、聖書の精神が図案化されているからである。 

 その五十音図のサ・ザ行がThe行、カ・ガ行はGod行、鹿児島の児はGod、種子島の子もGodとなる。

 以前にBoyはイエスのことであって、あなたや私の息子のことではないと書いたことがあるが、Childも当然同じであり、次のような関係になる。

                    Child=イエス=子=児=God

 児や子をゴ(ッド)、ガ(ッド)と読む理由について、これ以外に納得できる説明はできるのだろうか。特に子をガと読むのはおそらくこの場合だけであろう。シュとガ(ッド)の島、それが種子島である。鹿は法隆寺では神の使いとされているのだから鹿児島とは「神の使いの子」という意味になる。シカも、薩摩藩主島津家の家紋は十紋字。

 そしてさらに、一ヶ月のケをカと読むことから考えると五十音図とはいうものの実態は、アカサタナハマヤラワの十音以外の音はそれらが単に変形したものなのではないか、といろいろ想像できる。そしてこれを突き詰めてゆくと日本語は何らかの機械を用いてか或いは機械的に作られたのではないかという直感が正しいと証明してくれそうな気もするが、今はまだそこまで考える余裕がない。

 

 

 

 
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アルファベットの原理及びその他<B>下

 前回、サンズイの付く漢字について書いたので、では、法律の法になぜそれが付いているのか、考えてみよう。法に水は禁物である。悪事は水に流すと際限がなく続くし、法律書が水浸しになると裁判官は拠り所を失う。

 しかし、法を三分割すると水、土、ム(無)で、聖書を少しでも読んだことのある者ならこれはノアの大洪水のことを表したと直ちに理解できるのである。法は<神の法>を執行されると地球が水に覆われ、地面が見えなくなることを表した警告の文字なのだ。現代ほどそれが蔑ろにされている時代はないと思うのだが・・・。

 さて、BはBrotherのBに間違いないと思うのだが、誰を表しているのかというとAがアダム夫妻であればその子供たちカインとアデルの二人となる。言うまでもなく上の半円がカイン、下のそれがアデルである。

 Bの意味を備えた単語にBookがある。本は必ず左右のページに分けられているが、本来一つである。一つが二つに分かれてつながっているBの意味に合致し、そしておまけにOが二つある点を考えると、Bookとは旧約と新約聖書のことであろう。

 そのほかにBの性質を現しているのがBike, Bicycle,Bird,Brainなどだが、脳が左右に分かれていたことは当然知っていたことになる。

 尚、Bが美に通じていると説いた平御幸氏の卓見があるので「エフライム工房」を参照していただきたい。そのほかにBが語頭にきてBrotherのBとは異なる意味を持つ単語がたくさんあるが、それはこの文字の形や意味を拡大解釈して行った結果そうなったもので、B以外にも言えることである。英語はたった26文字しか使えないのだから必然的に一文字の意味を増やすしかないのである。

 

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アルファベットの原理及びその他<B>上

 もし、或るデザイナーに「兄弟」を一つの記号で表せ、という仕事の注文がきたとしたら、どのような図案を考えるだろうか。

 兄弟とは普通は同じ親を持ち、血肉を分けた者同士。そして年齢も格も上下の差がある者。という点から考えると、一つの形で親を表し、その形を二つに分けて別々の人格を表し、しかも上と下に接して並んでいるデザインということになる。そうなると<B>という記号に行き着く他はないと思う。

 <B>は〇を縦に二分割し、その左半分を上に乗せた文字であり、これ以上、兄と弟を表す適切なデザインはないと思われる傑作文字である。

 我々が未知の漢字に出会ったとき、サンズイがその文字に含まれていれば水に関係し、木があれば植物と判断するように、英単語も語頭のアルファベットで大体の意味は理解できるようになっている。ただ、英語が自然にとか偶然にできたとかという誤解、或いは洗脳されているために丸暗記を強いられているだけなのだ。

 
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アルファベットの原理及びその他<A>

 Aを虚心坦懐に眺めると左右の斜線が横線で結ばれている図である。斜線が頂点で一点に集約されているために不完全な三角形にも見えるが、それであれば横線の位置が中途半端である。また、書き順も今とは異なったものになっていたのではないだろうか。NASAのロゴは二つのAの横線を省いているが、その意図は宇宙の神秘の底知れない深さを表現しているのだろうが、私にはどこか、政府が国民に伝えない懸け離れた部分があることを表しているようにも見える。

 では斜線とは何か。それは傾くことで一直線とは逆に間違った方向へ向かうことを示している。家業が傾くとは経営がうまく行かなくなることを言う言葉である。

 左右とは左が上で右が下を、或いは男性と女性を表す一種の記号である。

 するとAとは、間違った道を歩んだ男女、が結ばれた形の意味になる。それは神の道から外れたアダムとエバのほかにはない。漢字の人とは、方向が間違った人間の意味であり、まだ結ばれる以前の人類の始祖である二人を表現した図案となる。

 Aを牛の角の形で、その体の先端にあるからAがアルファベットの最初に陣取っているという説を見かけることがあるが、それではA以下はどのように解釈するのだろう。全てを牛或いは農耕や動物で説明できるのだろうか。

 アルファベットはアダムとエバから始まる物語である。

 
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アルファベットの原理及びその他<B行、B級>下

 A,B行それぞれの特徴はなにかというと一つには何度も書いたように母音がA行だけにあってB行には一つもないこと。つまり、英語の作者はA行に特別な思いをこめてアルファベットを編んだのだ。

 では、我々がB級、B層という言葉を耳にしたり目にしたりするもののC級、C層、D級、D層などにはお目にかかれないのは何故か。それはBとは、Aの次の位にあるもの、つまり同質のものではなくAの下位に存在する異質のものという位置づけだからである。又、C行、D行がない以上、それらの階級も存在しないのは当然である。

 さらに、これから分かることは英語の作者は物事を上下二つに分けるという考え方を持っていたということである。ヤハウエを神と認めるか否か、イエスを神の子と信ずるか否か。その問いに対してはイエスかノーかしかないのであり、日本人的な或るときは神であったり、時と場合によってはタダの人になったりということは絶対に認められないという厳しい宗教がユダヤキリスト教の本質なのだ。信ずる者は上、そうでない者は下、と厳然と区別されるということである。

 二つ目の特徴は、A行があるからB行があるという文字の作り方になっていることだ。これは一文字ずつを解説する際に詳述したいと思う。

 各列をよく見ると、A行の文字を加工してB行のそれを作ったような上の文字と下の文字で一対になっているような配列に組まれていることが分かると思う。これはアルファベットが「いろは歌」と同じように意味のある並べ方、意味が続けば形も似るためもあるだろうが、「A行があって始めてB行があるのだ」と言いたかった作者の意図ではないだろうか。

 最後に当たり前のことだが、A、B行ともに13文字である。13という数字を見て我々なら何とも思わないが、熱心なキリスト教徒ならすぐさまイエスとその弟子を思い浮かべるはずである。

 
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アルファベットの原理及びその他<B行、B級>上

 夏になると目立たなくなるかと思ったがサラリーマンの黒服姿は減少する気配がない。この蒸し暑いのに真っ黒な背広を着、寄り集まって動くのを見ると「そこまで横並びしなくても」と目を背けたくなる。母音がなければ言葉を発することができない民族的宿命に殉じているのだろうが、変な日本語を話していると常に非難される若い人々、特に女性の、顰蹙を買いそうな奇抜な服装の方が私にはずっと好ましく思えるのである。
 
 この横並び意識、母音に右倣え意識から脱却しないかぎり、わが国からスマホやタブレットを凌ぐ商品は生まれないだろう。

 喪服の葬列が街の風景から消える日が待ち遠しい。

 黒と言えばBLACKだが、意味が定かでない。一文字ごとの意味は理解できるのだが、この五文字が何を意味するのか私には不明である。それでは話にならないので無理に解釈してみたい。なお、BLACKの意味は「黒」ではなく、日本語で付けられたいわば名前である。では、そう言う人たちが「黒」の意味は何かと問われたら何と答えるのだろうか。まさか「BLACK」とは答えないと思うが。
 言葉の意味とは、第一に言葉の作者の真意を探ることである。

 B-上下に分割。対称。

 L-1に従属。主導者と従者。
 
 A-左右の結合。傾く両者。最初。

 C-半円。Bの一部分。

 K-1に接する直角。接触。

これから想像するに、BLACKとは「分かれたものに従う一団」となるのではないだろうか。
ためしに反対のWHITEをみてみよう。なるほどと合点が行く文字となっている。

 W-Vが二つ。逆さにしたM。

 H-1と1との結合。左右に架かった橋。

 I -1。唯一。

 T-天から降る。天啓。天佑。

 E-天、空、地の結合。永遠。完全。

 これはまさに旧約聖書にあるシロそのもの、イエスを語っている言葉である。

 本題に入る前だが、長くなったので今回はこれまでにしたい。

 

 
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アルファベットの原理及びその他<文字順>

想像するだけで暗澹とした気分になるが、今後は小学生までが英語の授業で貴重な学習時間を無駄にするという。英語の授業が始まる分、最も大切な国語や算数の時間が削られるのは目に見えている。米国人が訛りのひどい英語を清らかな瞳の子供たちに作り笑いを浮かべて教育することになるのだろうが、日本の未来を担う子供たちが外国人、それも戦勝国の国民から戦勝国の言語を学ぶとは何という屈辱であろうか。

 敗戦とは領土や金銭や過去の問題ではなく精神のことなのだという真実を戦争に明け暮れた欧米人は我々に先んじて理解し、それを今もって巧妙に実行しているのであるが、悠久の歴史をもつ国民はその悪意を感じとって抵抗しなければならない。

 敗戦から70年にもなろうとする今、そろそろ逆襲の時期ではないだろうか。英語に関して言えば「あなた方以上によく理解していますから、もう、用はありません」と言って彼らを本国に帰さなければならない時期がきたのである。「何をいまさら英語の授業なんて」と言わなければならないのである。

 では、彼らの武器ともなっている英語とは何なのか。第一に聖書に基づいて造られた人工言語である。人工物という事実を隠し、あるいはあいまいにされ、あるいはもっともらしく異なる理屈を並べられているために中々理解しがたいのだが、それは今も脈々と生き続けている作者の子孫の意図なのだから見抜くことが難しい。いわば、自然にできたと洗脳されている状態であるから、その原理を追及する意欲が湧かないのだ。
 人工物であることはアルファベットの文字列を見ただけで一目瞭然である。

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A B C D E F G H I J K L M N O P Q R S T U V W X Y Z

 英語の母音が26文字の中で3・3・5・5・5文字の間隔を持って並べられている。偶然と言うなら次の場合はどうだろう。
 
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A C E G I K M O Q S U W Y 


B D F H J L N P R T V  X  Z

 私が提唱するアルファベットは本来A行、B行に分けて書くべき、という説に基づいても作者が母音はA行つまり上位に置くべきだと考えていたことが歴然としている。そして、その間隔も1、1、2、2、2 と一行書きと同じように規則正しく配置されている。

 そしてさらに、A、B二行に分けた場合に九列目に Q があるように、Aから十番目の文字が J である。駄洒落のようだが、これが英語の実態なのだ。いや、英語だけではなく日本語、漢語も同類なのだが、なぜこうなるかというと、造ったのが同じ人々だからである。

英語は元々ラテン語から発達した言語だからそこから勉強しないと、と言う人がいるのは百も承知だが、ラテン語の元はヘブライ語! という説もある。それらをすべて学んだ後にと言うなら百年掛かっても独自の考えをまとめることはできないだろう。

 実際の生活のなかで我々は他人と相対する場合、その人物の祖先などは気にせずに当人を観察して信用できるかどうかを判断する。しかし、その人物の中に氏素性は現れているのであり、見る人が見れば見抜くことができるのである。




 
 
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アルファベットの原理及びその他<前書き>

 私を含めて日本人が何故にこれほど英語を苦手としているのか。それは逆説的ではあるが、日本語が最も、という言い方が適切かどうかは分からないが、それほど英語に近い言葉だからだと思う。近いから分からないというのは男女の仲を想像すれば良いと思う。最も近い関係ではあるが、古来、このことについてどれほど言葉を尽くし、演劇の主題に取り上げられ、歌われてきたか知れないが、今もってその間の謎は解けないままなのと同じなのである。

 例えると日本語と英語は背中をくっつけて立っている男女と同じなのだ。振り向けばすぐに親しくなれるのだが、前へ歩いて行って近づこうとすると互いに地球を半周しなければならいほどの労力を必要とするものなのである。

 さて、その英語の元をなすアルファベットについて原理などという大仰な題をつけたのはいつもの癖であると同時に、これが分からないと英語は捉まえられませんよ、という意味を込めたつもりである。

 今まで、このブログに断片的に書いてきたもののまとめになる部分と新たに考察したもののまだ不完全な部分の二段構えの構成になる予定だが、書いて行けるところまで書くつもりである。

 内容は今のところ、次にまつわるものになると思う。

 1. 英語は間違いなく人の手によって造られた人工物である。
 2. 造られた原理原則は聖書に基づいている。
 3. アルファベットには「いろは歌」と同じく、物語が秘められている。 
 4. その他には、英語に関する世相を中心に私の考えを述べてみたい。

 




 
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聖書訳漢字字典 <多>

 これはカタカナのタを用いて「多い」を表したと見るほかに考えようがない文字である。タがもともと多いの意味を持っていた文字であったものを二つ重ねることによってさらに多いことを強調したのが<多>である。全てが漢字の創世期に存在したとは言えないだろうが、漢字の中には部品のようにしてかなりのカタカナが使用されている。

 今までは漢字の一部を抜き出したのがカタカナだという説が一般的であったが、それは例えば、パソコンの機能の一部の文字入力部分を取り出し、それからワープロを造ったと語っているのと同じで実際はその逆なのである。簡単なものから複雑なものへ進化してゆくのが現実の流れである。初めにソロバン、次に電卓、その次に電算機となったのだ。

 カタカナは漢字よりも古い文字であるということを裏付ける史料はまだ見たことはないが、理屈の面からは確実ではないだろうか。

 それではタが何を表すかであるが、カタカナのクの右斜線に点が付いた文字だと思う。その意味はCHRISTのクを否定している図ではないだろうか。

 

 

 
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