SSブログ

聖書訳漢字字典 <舌>

 舌の文字は十字架の下に口=人で上にチョンがついている。十字架に従う人の中で地位が高い者が横たわる図ということになる。口の中にあり、食物の下になるから下と同じ発音なのではなく、墓の下の意味を強く漂わせている文字である。下と言うならば地面の下、十字架の下ということである。
 
 墓の意味を如実に表しているのが、大阪にある堺市の古墳群である。ここは仁徳天皇陵を始め五十基ほどの陵が散在している地域だが、その地区は百舌鳥地区と言われている。

 陵の数は以前、百基以上もあったということだからその地域には特別な歴史があったと思われるが、それにしてもそれほどの地域になぜ百舌鳥などという姿も鳴き声も美しくない鳥の名がつけられたのか、意外な感じを持つのが普通であろう。

 しかし、モズという鳥の習性を考えるとこれほど適切な名もないのである。モズの習性で最も大きな特徴は虫等の遺骸を木の枝に刺して置くという不思議な行動である。この理由は餌の保存と考えられていたが現在ではその説は誤りとされている。

 モズが虫等の遺骸を集めておくことと死者が眠っている陵が集積していることが同じ様と見た古代人がこの地区に百舌鳥と名づけたのは不思議でも突飛でもない、実に適切なことなのだ。百舌鳥の鳴き声は百の舌があるほど騒々しくもなく、大集団を作ってうるさく鳴きわめくのでもない。舌の意味が遺骸であり、モズがそれをあちこちに保存しておく習性を理解していたからこそ、百の舌の鳥と名づけられたのだ。舌とは遺骸のことなのである。少なくともこの地域を名づけた昔の人はそのように理解していたのである。

 そして百とは10×10であり、10で充分に多いことを表しているのにさらにその10倍とは無限に近いほどと言う意味である。

 しかし、御陵がある地区にはもっと適切な高貴な名があるだろうと言うのは、聖書を信じていない者の戯言である。すべては神の被造物であり、百舌鳥であるから鶯よりも下だとかそんなことは聖書の民は考えないのだ。神の被造物という点で全ては平等である。これが当意即妙な名が我が国の地名としてあちこちに存在する理由であり、八百万の神があらゆるものに宿っているという思想の基である。


nice!(0)  コメント(0) 

問題の書『横田めぐみさんと金正恩』

久しぶりに面白い本を読んだ。内容が真実かどうかはともかく、値段以上の価値はあるので一読をお勧めしたい。なにしろ、金正恩氏の母が横田めぐみさんだというのだから、まさに驚天動地の話である。事実かどうかは分からないし、確かめようのないのだが、そのように考えることも可能だという話である。子供の頃のめぐみさんと金氏は言われてみればよく似ているとも言えるが、似ていると言われたからそう見えるというのもあるのでどこまで信用していいのか。

 私としては前から疑問に思っていた二つの謎がこの本で解消したのは収穫であった。一つは横田夫妻のご両親つまりめぐみさんの祖父母に当たる方々が全くマスコミに登場しなかったという謎である。他の拉致被害者の家族は祖父母が当たり前に登場しているのにあたかも存在しないかのごとく、最初から顔を見せなかった。めぐみさんの母方の血筋が、著者がそれとなく匂わせているのが事実であれば、そうだったのかと納得がいく。そして著者の推測が正しければ、めぐみさんは偶然にではなく計画的に狙われて拉致されたことになる。

 次は北朝鮮の人々の顔立ちが南側のそれとは全く違うという謎である。南は伊大統領に代表される朝鮮人種そのままの顔であるが、北は中国人に似た顔をしている。著者のブログに掲載されている北に住む人々の上から下までが南の人々と同じような顔は一人もいない。もともと民族が異なるのかとも考えていたが、北朝鮮が満州国の後を引き継いだ国家となれば五足協和を実践した結果、現在のような容姿容貌の民族ができたのも頷けるのである。

 この本を読んだ後では二十八歳で重責を担うことになった若大将風の金正恩氏にどこか親近感が湧いてきて仕方がないのだが、それもまた著者とその背後にいる人の計算の内なのだろうか。問題の書であることは間違いない。

 内容は著者のブログとほとんど同じなのでURLを記しておく。
          
 http://grnba.com/iiyama/
nice!(0)  コメント(0) 

聖書訳漢字字典 <田> その二

<田>で忘れてならないのは、これが<魚>の文字に含まれていることだ。その理由についてある漢字学者(そういう肩書きだったと思う)が、昔、中国では田の中で魚を養殖していたからだ、とまるでそれが事実であるかのようにテレビで語っていたが、昔は今より何十倍も自然が豊かだったのだから、川や海に魚は溢れるほど棲んでいて養殖など無用だったはずだ。私も想像で書くしかないが、だから養殖など必要なかったのである。我が家の近くにある幅三メートルほどの川でさえ三十センチぐらいの鮒がいつでも泳いでいた。今からまだ五十年くらい前のことである。

 これが鱗の形からできた象形文字だと言われた方がまだ納得できるのだが、もちろん、事実はそうではないだろう。ギリシャ語で「イエスキリスト 神の子 救い主」の頭文字が<魚>になるために不似合いな田がここにいるのである。そうなると漢字が今の形に固まったのはそれほど古くはないことになる。少なくとも紀元前ではない。とかく「中国五千年の歴史」の言葉に惑わされて漢字もそれなりに古いと考え勝ちだが、ギリシャ文明の方がずっと古く、進んでいたということが<魚>から知ることができるのである。

 そしてもう一点、見逃してならないのが田の上の<ク>である。これはおそらく Christ のクではないかと思う。同じ意味で付いているのが亀の頭と言われる<ク>だが、外見が亀と見分けが付かない鼈(すっぽん)にはどこにもないのはそこに重要な意味が秘められていると見ていいだろう。亀については以前に詳述したので省略したい。

 八甲田、十和田の田も訪れたキリスト教徒が嶺の数と湖の形に心を震わせ、ためらうことなくこの文字を用いたのが真相であろう。 

<田>の続編ではなく<魚>の解釈になってしまったような気もするが、尾と言われる四つの点の意味が理解できないのでそれが分かり次第ということにしたい。
nice!(0)  コメント(0) 

聖書訳漢字字典 <田>

 キリストの墓があると言われる青森県南部地方の地名を調べているときに今は市になっている八戸の地名が、すでに800年前の資料に記載されているという記事を読んでなるほどと思った記憶がある。というのは、前にも書いたようにこの地域の地名は原始キリスト教徒が名づけたものに間違いないからだ。イエスの死後、あまり時をおかずにわが国には失われた十支族のユダヤ人が上陸していた証拠の一つがこの地域の地名なのである。これほどはっきりした史料は世界でも稀なのではないかと思う。

 八戸がそうであれば一から十まで一つの意図に基づいて付けられたその地域全体の地名も800年以前から存在していたと見るのは妥当なことだと思う。

 十和田、八甲田なども同じである。ここに使われている<田>が何を意味しているのか。十和田地方にその当時水田や畑があったわけもなく八甲田山脈には今もって一枚の田も存在していない。この文字が水田や畑の象形文字だとすると日本中に散在している農業に関係ない〇〇田の地名はどう解釈すればいいのだろう。漢和辞典の編著者の考えを伺ってみたいものである。

 <田>を素直にみると一定の範囲の中に十字架が立っている。囲んでいるのは四角であるから、アラビア数字の項で書いたとおりそれはユダヤ教及びヤハウエを表している。するとこの文字は、十字架=イエス=神の子=アダムとなり、エデンの園を指していることになるのである。アダムはイエスに比べて神の子といえるかどうかは微妙なところだが、神の息を貰って命を得たのだから完全にそうでないとはいえないだろう。

 <田>がエデンだとすると、十和田、八甲田の意味が直ちに分かる。その地に住み着いた人々にとっては、そこがエデンの園のように思えたということである。

 ところで<米>は風車のように回転させると本来の意味が理解できる文字だと書いたことがあるが、<田>も同じなのは一目瞭然である。田と米という切っても切れない関係にある二つの文字が同じような秘密を持っているのは、一体何のためだろうか。

 試しに田をくるくると回転させてみよう。すると、読みはデンデンデンデンデンデンとなるが、ゆっくり読んで行くといつの間にかエデンエデンエデンと聞こえて来るのは、筆者の空耳だろうか。

 

 

 
nice!(0)  コメント(0) 

聖書訳漢字字典 <白>

 「創世記の中に記されているシロと言う言葉はあまりにも素晴らしいために翻訳できない。だから、訳さないでそのままにしておいた」という話をどこかで読んだ記憶がある。シロは創世記49章に次のように登場している。「杖ユダを離れず法を立つる者その足の間をはなるヽことなくしてシロの来る時にまでおよばん彼に諸の民したがふべし」。そして英語訳でもシロはShiloh とそのまま残されている。

 この意味は救世主とみて間違いないと思うが、日本語と英語の翻訳者はともにその重要さを理解し、その言葉に手をつけないで諸人の前に提示したのである。

 そのために<白>は字形がこれ以上はないほど尊い形になっている。<日>の上にチョンを付けて太陽以上という意味である。翻訳者が訳をためらったのも分かろうというものである。

 この白の下に王と書くのが皇である。天皇の出自がどこなのか、天皇自身は3000年前から明らかにしているのである。そしてもう一つ、我が国の国旗は「白地に赤く日の丸染めて・・・」であるが、日の丸が赤々と輝くときにその背景は空の青さであるはずだ。白地となっているのは白い布に赤い丸を描いた単純なものではなく、それはシロと日の丸を図案化した意味の深いデザインなのである。

 そして神道ほど身に白い装束をまとう宗教はないだろう。

 シロの音は至上、至極、死など究極を表すシにロク=六のロを繋げた言葉だと思うが、ユダヤに現れる救世主の意味である。
nice!(0)  コメント(0) 

聖書訳漢字字典 <和>

 日本人の大好きな<和>であるが、これを漢和辞典がどのように解釈しているかは知らないし、調べる気もないが聖書の中では重要な文字である。今回、取り上げる文字にふさわしくないことを書くことになるが、辞典の編者は解釈が難しくなると形声とか仮借だとか借字もあったように記憶しているが、そう逃げればいいのだからこんなに楽な仕事はないだろう。

 さて<和>の文字を分解すると禾は木の上にチョンがついて木よりも尊いもの、口は人数を数えるときの人口の口なので人と見ることができる。そもそも木とは何かというと十字架の下に人がいる図であり、十字架に従う人と解釈できる。

 そうすると<和>とは、十字架に従う人よりも尊い<口=人>となるが、具体的に誰かというとイエスの他にはいない。

 我々がふだん「和を大切に・・・」と言って、団結や協調を大事にしてという意味で使うのは間違っているとは言えないが本来の用法からはズレている。聖徳太子が「和を以って貴しとなす」と言ったその真意は「イエスを最高の神と讃えるべし」である。

 新約聖書の中でイエスは「人もし汝の右の頬をうたば、左をも向けよ」と絶対的な<和>の精神を教えているが、漢字を造った人はこの言葉が念頭にあったのではないだろうか。
nice!(0)  コメント(0) 

聖書訳漢字字典 <川>

 前回が<聖>なので今回は<書>になれば格好がつくのだが、書は難しくて今は降参するしかない。日と土は理解できるがカタカナのヨに似た文字の意味が解釈できないのである。出来次第、掲載したいと思う。また、<聖>について書き忘れたことがあるので書いておくと、聖人をセイトと読むと英語のSAINTの意味と発音が全く同じになるが、言葉を創造した人々は重要な言葉については時々こういうことをしている。それだけ信仰が篤かったのであろう。 

 今回は<川>を取り上げたが、誰が見ても分かりやすいためかその成り立ちが誤解されている漢字である。この解釈を三本川と言って簡単に済ませているが、流れを観察すると川の水はこのように流れていない。自然の川は真ん中が最も早く流れていて両岸よりは水流が長くなっている。試しに橋の上から眺めて見れば分かるはずである。

 子供の頃、親から耳が痛くなるほど聞かされた言葉が「川で溺れたら何が何でも岸の方へ行け」というものだったが、その理由は木や草が生えていてそれに掴まることができるという他に岸に近づくにつれて流れがゆるやかになるからである。もし、<川>が単なる一本の川の象形文字であるならば真ん中の線を左右の線よりも長く描いたはずだが、そうはなっていない以上、この文字が三本の別々の川を表したのか、あるいは二本の川に挟まれた真ん中の陸地を表したかのどちらかということになる。

 私の考える<川>は、左右の二本線は神ヤハウエがモーゼに約束したユーフラテス川とエジプトの川であり、真ん中の線はイスラエルの当時の領土である、というものだ。この根拠は二本の川について述べた最も古い文献を探せばいいのだが、私には不可能なので誰かが書いていたように現代イスラエルの国旗にそれを見出したいと思う。その国旗は上下二本の青い線の真ん中に六芒星を配置したものだが、その青い線こそ表向きには意味がはっきりとは語られていないがユーフラテス川とエジプトの川なのである。その真ん中にある星はもちろんユダヤ教の印、六芒星である。イスラエルの密かな野望は神に与えられた二つの川の間にあるすべての土地を我が領土とすることであろう。


nice!(0)  コメント(0) 

聖書訳漢字字典 <聖>

 ブログを廃止することをお知らせしたものの、毎日二十人前後の方が閲覧して下さっているので不定期にでも書き続けようかという気になり、再開することにした。ほとんどお遊びなので真面目なことは期待しないでいただきたいが、今日のテーマは聖書から出来た漢字の話である。全ての漢字も英語も日本語も聖書から出来ているのは間違いないのだが、漢字はその中でも聖書由来説が最も多くの人に知られている。中でも有名なのは<船>の解釈であるが、これは以前に書いた記憶があるので省略して今回は<聖>を取り上げてみたい。
 尚、船の意味が分からない方は検索すればたちどころに調べられると思うので実行してみることをお勧めしたい。

 さて<聖>であるが、これを理解するにはかなりの時間を要した。諦めようかとも何度か思ったが、漢字が聖書から出来ていると主張しながら<聖>の文字が解釈不能では格好がつかないので折に触れて考えていた。これが難しかったのは、聖なるものになぜ口と耳と言うあまり清潔とは言えない身体の部品が使用されているかということだった。目とか手であればまだしもと思ったのだが、口と耳でなければならない理由があったのだ。

 口と耳とは「ことば」を表しているのだ。我々は言葉と聞けば反射的に文字を思い浮かべるが、神の最初の言葉は天地創造の場面に出てくる。そのときにはまだ文字は当然この世に存在していない。そして新約聖書によると「神は言葉なり」なので最高の聖なるものである神は表現を変えれば言葉の王である。では、文字のない時代の言葉を何で表現するかというと、口と耳の二つがその役割を担っていた。

 口+耳=ことば、である。

 これが分かったときには漢字製作者の余りのセンスの良さ、そして図らずも生まれたユーモアに思わず笑いが込み上げたが、日中英の文字と言葉の由来を探っていくとしばしば出くわすこの面白さに病みつきになる。

 
nice!(0)  コメント(0) 

太田明氏が解明したアルファベットの謎

  昨年、月刊『ムー』誌は二回に渡り太田明氏のアルファベットについての研究成果を紹介した。記事には研究に伴い太田氏が発見したアルファベットとピラミッドとの深い絆についても記されている。アルファベットとはピラミッドのことか、と言いたくなるような衝撃的な事実である。

 アルファベットの文字Aを1として数字を割り振っていきZを26とする。
 
 するとPYRAMIDOは16・25・18・1・13・9・4となるが、ひとまずM=13とR=18を横に置いておき、後で使用する。
  Aから並べ直すと1・4・9・16・25となる。これらは、1・2・3・4・5 の平方数である。この平方数を、1をサイコロ一個の立方体として並べて積み重ねていくとなぜか完全なピラミッドができあがるのである。

 次にMとRの出番である。二文字の順序数を足すと31。これにAとDの数字を足すと36。36は6の平方数。一つ目のピラミッドからAとDを取り除いて二つ目のサイコロに加えると頂点のない新しいピラミッドができあがる。MとRとは何を意味するのか、私が考えていることもあるが今回は省くことにしたい。

 PYRAMIDがPIRAMIDとかPILAMIDに成らなかった理由の一つが、順序数でピラミッドを作るためだったということは最早明らかだ。そしてアルファベットとピラミッドを作ったのが誰かと言うことも明白になった。

 これが偶然とか陰謀論でないことは次の事実が語ってくれる。

 JESUSの順序数が74。CROSSのそれも74。MESSIAHも74。つまり74は、イエスキリストそのものを表す数字なのである。
 ところで蛇足になるが、74という数字を見て何かを思い出さないだろうか。そう、アメリカ独立記念日である。この日を選んだのは、アメリカの建国者達がこの数字の意味を知っていたからである。

 そして7+4=11。二つの1=神が立ち並ぶ数字でもある。そして、7=イエスは、4=死の運命が避けられないという意味にもなる。

 太田氏のアルファベット解明はピラミッドやイエスに関わることでこれ以外にも多々あるが、内容が複雑過ぎて私の能力と筆力では全容を紹介することは不可能である。機会があれば是非読んでいただきたい。

 
 

 
 

 

 

 
nice!(0)  コメント(0) 

聖母マリアを一字で表す<谷>

 昭和天皇は<谷>という漢字を生涯、ハ ハ 口 と正しい書き方で書き通されたという話を聞いたことがある。なぜ現在のように ハ 合 になったのかは分からないが、意味のない余計なことだと思う。こうなると谷の意味は ハハの人 から、ハ に合わせるとなり、そこに母なるものが消えてしまうのである。

 昭和天皇は、谷が自らの出生に関わる重大な文字であるために敢えて正字を書いたのだと推察する。
 
 もう一度この正字の谷を見てみると、ハ は ヤ とも読み、ヤは今まで書いたようにヤハウエの略である。ハとはそのままだとノアの家族の八人、つまり人類を今のように生み増やした家族である。すると、ヤとハを合わせると神によって生み増やした口となる。口は人口の口で人を表すので神によって生み、増やした人となり、聖母の意味になる。

 イエス以外のマリアの子となると、先年、その石棺が発見されたいうことで大騒ぎになったヤコブが知られているが、何も見つかっていなくともマリアは子供を生める女性であることは確かなのでイエスに何人かの兄弟姉妹がいてもおかしくはない。

 その子孫つまりイエスの異父弟妹の子孫が今もこの世に、しかもわが国で血脈を保って存在している、イエスがユダヤの王と呼ばれたように神国の王として君臨していることを思うと恐れおののくというか、言うべき言葉が見つからないのである。


nice!(0)  コメント(0) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。